J-NF’s blog

雑記、備忘録

お題「不思議な話」

 

お題があったので書いてみようと思う。

とは言っても、霊感ゼロ。全くもって経験がないが、「あれは何だったのだろう?」という体験は無いわけではない。

読んだ後、結論がないのでモヤモヤさせてしまうかもしれないが…

 

①悪夢

昔、団地に住んでいた時、娘がよく悪い夢を見ると言っていた。

子供だから昼に経験した事が夢になっているのだろうと思っていた。

ある日、娘が寝落ちしてしまい、寝る場所が異なる事があった。

普段は窓側から私・妻・娘 で寝るのだが、その日は妻・娘・私。

そして悪夢を見た。

天井から俯瞰した景色で、下には私が寝ている。

次に、私の位置から天井を見上げている。天井からは私が見えた。私の位置からは赤い肉片サイズは50cm程度のラグビーボールの様なサイズで、大きな目が1つ。口も1つ。 そいつが私を見下ろしている。

「なんだあれ? 気味が悪い」としか思わない夢の中の私。

とその直後、奴が私の枕元にきて右手を手首から食べるという夢だ。

夢の中で叫んでも声は出ない。

目が覚めた時、普通に寝ていただけなのに、右手の手首から先が血流が止まっていたかの様に痺れていた。 あれは何か本当にわからないし、見たのは1度だけだ。

 

②風や音

同じく住んでいた団地時代だが、これは私ではなく妻や娘の話。

まず、妻は閉め切った部屋でカレンダーが揺れ、その後ろの壁に「コンコン」と何かがあたる音を聞いている。

娘も閉め切った部屋で足元を何かが通った様な風を感じた直後、開き戸の扉が勝手に閉まるという体験をしている。

 

③線香

上記のような亊があった訳ではないが、家が欲しくて色々と内見をしていた時の亊。

ある一軒を訪ねた。

家主は丁寧に案内してくれる。 少々汚れているが、家の大きさ、周辺環境に比べ随分安い。「悪くない」と思っていた。こういった価格の安さは焦げ付いているか、夫婦間の問題で早く売りたいかのどちらかだろう。

階段を上り3階へ。 

上った部屋の窓を開ける。風が入ってくる。

家の裏は公園で建物がない。

私は気に入った。 窓を閉め振り返り、窓と反対側の襖を開ける。

「ん? なんだか暗い」 そう思ったら、家主が「申し訳ない」と。

聞けば、家主の父が使っていた部屋で1年前に亡くなり、まだ納骨していないという。

「あぁ、線香の灰が残っているのはそういう亊か…」 と思った。

この時、暗いと感じたのが電灯のせいとしか思っていなかった。

さらに奥の部屋。 階段を降り、1Fの駐車場奥の部屋とみていく。

内見を終え、私は好感触を伝えようと不動産と話していたら、妻が「ここは嫌だから辞めよう」と言う。

予算内、シャッター付きガレージ。好条件だと思うのだが、不動産からもよく話し合った方が良いと言われ、一旦結論は持ち帰る。

そして、家に帰り妻からの話で私は断りの返事をするのだ。

妻は「3階にあがる階段の途中から、鼻先に強烈なお線香の匂いがした。あなたが窓を開けた時、不動産の人も『風が気持ちいい』と言っていた。確かに風通りは良かったけれど、鼻先の匂いが消えない。ずっとお線香を鼻先に持ってこられてるみたいだった」

調べれば、心霊現象の中に線香の匂いというのがあり、私は妻の体験はこれと似ていると感じたのだ。

以降の内見、妻の嗅覚をまず聞くのが常となるのであった。

 

以上が思いつく不思議な体験だ。

ただ、私は心霊体験の話は嫌いではないし、霊というものも存在はしているのだろうと思っている。 あぁいうのが見えるのは余程波長を調整出来るのか、霊の働きみたいな物に自分の波長を合わせられてしまう人でないと見えないのだろうと思っている。

また、似て非なる物として、仏や神、菩薩などがある。

これについて、私は人智を超えた存在と言うものにあまり興味がない。

信仰心はあるが、仏や神、菩薩など数多もいる。それらについて、私は人の能力の限界地を表しているのではないだろうか?と思うのだ。

千手観音、例えば、会社経営者で従業員の多くの生活を守るために手腕を振るう亊。例えば、大勢を救う医者。

薬王菩薩、製薬会社で新薬を開発しようと日々奮闘している人などは人類の薬王菩薩の働きと言えないだろうか。

普賢菩薩も同様。そう考えれば、誰もが神の力を宿し…違う。

人が持つ数多の力を切り取って神や仏、菩薩としているのではないか?

仏教などは内道なのでそう思ってしまう。 西洋の宗教は分からないので何とも…。

 

どこそこの寺社仏閣というのは歴史的に価値がある。 あるのだが、信仰という意味では、末法に入った現代、「悟り」という自身の胸中の扉を開くのは寺社仏閣ではなくもっと本源的な所にある気がするのだ。

願い、祈る亊は人として普通の亊だと思うが、現実を変えていくのは人である。

願いの結果が現実に出たとしても、どこかで人の力は加わっている。

これが神の力だ、と御都合的な解釈はあまり好かない。